巡り終わる季節
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ずっと流れながら向かっていた、終わりの時がようやく巡ってきた。星を見てそれを指摘してくれた弟子の言うとおり、一週間も経たぬうちに待ち人はやってきた。顔を見た瞬間に思った。年を取ったな、と。それはお互い様だったのだろう。愛しい男は再会した直後に目を細めて、
「年、取ったな」
と言ったのだ。お互い様だ、と言い返したら、男の目尻の笑い皺が増えた。それを見た瞬間に、あぁ、こんな風に笑えるようになったのだ、と彼女は思った。そして彼女の顔もまた自然に、笑い皺を作って返していた。
憎しみは忘れることができなかった。けれど憎みきるということもできなかった。今は忘れられなかった憎しみよりも、忘れきれなかった愛情の方がより深く、心の中に沈殿している。
彼女は震える腕を伸ばした。男はその腕をとることなく、大股で一気に彼女との距離を縮めて、腕の代わりに彼女の体をとった。別れた頃はほんの若造だった男は、いったいどんな生活を送ってきたのか、固くしっかりとした体を作っていた。
彼女は男の二十年を、男は彼女の二十年を、お互いに何も知らない。しかしその二十年を、男はほんの数歩で埋めてくれた。抱きしめ合った体から伝わる温度で、彼女は満足していた。空白の二十年を語り合う時間はないだろう。お互い、捨てきれなかった憎しみと愛情を清算する覚悟で再会したのだから。
「因果だな」
「そうね」
言葉は短かった。ずっと抱きしめ合っていたかったけれど、二人は互いを愛し、それでも赦しきれなかった。こうして再会して、その瞳を見ればそれがよく分かった。唯一、お互いに赦すことができたのは、ただ一緒に死へ向かうことだけ。
「こうしてここへやってきたということは、未練はないのね」
「ねぇさ。俺はこの二十年、好きに生きた。そして、死ぬ時も好きなように死ぬ」
変わらない、と彼女は思った。この高慢とも思える考え方。自信にあふれた話し方。北の民でなければ、おそらくどこの国でもその中枢に近い部分で成功を収めることができただろう。それだけの力量を持つ男だった。出会った頃からずっと、強くて、賢くて、魅力にあふれた男だった。そんな男がこの二十年間、他の誰も惹き付けずに生きてきたとは考えがたい。おそらく彼に魅了された人は多くいただろう。けれどそれを振り切ってまで、いま自分の目の前に立っているのだと思うと、彼女の心は優越感に震えた。
「好きな奴と死ぬ。――アリアンヌ、お前は?」
真っ直ぐに見つめてくるその赤い瞳。同じ色は十年の間彼女の側にあったけれど、同じ輝きとは言えなかった。
「――私も好きに生きたわ。そして、憎いけれど憎みきれない男と死ぬ。それくらいは、赦されると思えるから……」
父親の命で殺された、男の村人達と、そして男に殺された父や他の家族達に。今はもう、赦しも請えない人達に、それでも二人は赦しを願って死ぬのだ。
しかし彼女にはまだひとつだけ、やり残したことがあった。彼女は自分を殺す男、そして自分が殺す男を、同じ色の瞳を持つ弟子に引き合わせた。お互い、失った村の外で同族に会うのは初めてのことだっただろう。
大柄の年を取った男に対して、本当に小柄のまだ若い弟子。共通点はその髪と瞳の色だけ。もっとも、男の方はその髪にだいぶ白いものが混じっていたのだけれど。
二人はあまり多くを話さなかった。そんな時間がなかったこともあるし、二人には言葉が必要ないようにも見えた。お互いに共通の赤い瞳で視線を交わし合うだけで、理不尽な侵略と迫害の被害を受け続けた二人はなにもかも分かり合ったようだった。
男も彼女も、自分達の死に場所に第三者が立ち会うことを望まなかった。だから必然的に彼女の弟子は、十年を過ごした北の小さな家を出て行くことになってしまった。
彼女が別れを告げると、弟子は何の抵抗もなくそれを受け入れた。男がしたためた一通の手紙――彼は彼女に向かってこっそりとそれを遺言だと言った――を持って、弟子は粛々と旅の支度を整えたのだった。
「私のローブを着てお行き。魔術師も信用されないけれど、そのまま行くよりはましだわ。…………最後まで面倒を見られなくて……」
自分の真っ白なローブを着せると、小柄な弟子はますます小さく見えた。雪のような淡い水色の髪はそのローブで隠すことができるだろう。小柄な弟子には大きいローブだから、フードは赤い瞳も隠してくれる。元々魔術師は顔を見せることを好まないとされているから、服が多少大きい以外は特別不審な格好ではない。
弟子はそのローブと、旅の道具が入った肩掛けの鞄、そして、彼女が拾ったときに既に手にしていた身の丈よりも長い金属の杖を持って、彼女に最後の別れを告げた。
「お師匠様。村を失ってからお師匠様に拾われて、ここでお師匠様と過ごした時間、私は幸せでした。それで私には十分です。どうか、お師匠様がお望み通りの旅路に出られますよう……」
彼女は弟子の言葉に息を呑んだ。これから心中することを、弟子には打ち明けていなかった。だから多分、師が愛した男と二人きりで暮らすための厄介払いだと、そう弟子が勘違いしてると思っていたのだ。そう、思いたかったのだ。
「お前、すべて分かっているの?」
罪悪感に胸を突き刺されて、彼女は尋ねた。すると弟子は小さく首を横に振って答える。
「いいえ。私に分かることは極わずかです。お師匠様があの方をずっと待っていらしたこと。お師匠様は長い間あの方を待ち、苦しんでおられた。そしてその苦しみを終わらせることのできる日は、あの方がお師匠様の元へ戻られる時だと、それだけは分かります」
それだけ分かっていれば十分だった。分かっていながらも、彼女の孤独の肩代わりをしてきたというなら、この弟子はなんと我慢強く、そして寛容だったのだろう。
「……私はとうとうお前を選ぶことができなかった。あの男と別れて二十年。そのうちの十年。その孤独な時間私の側にいてくれたのは、あの男ではなくお前だったのに……」
何も返すことができない。その十年の歳月、彼女が弟子にできたことと言えば、少ない知識を分け与えることだけだったのだ。それだけの見返りしか得られず、挙句にこうして追い出される形で身分を隠した過酷な旅に出るというのだから、弟子はもっと彼女を罵ってかまわないはずだ。
けれど弟子はその必要性を全く感じていないようだった。彼はその大きな赤い瞳で彼女を見上げると、まるで彼女の感傷を宥めるようにして微笑んだ。
「それを悔やむことはありません、お師匠様。人は誰しも、そうしてひとりの人を選ぶのです。幸せを与えたいと願い、幸せを得たいと思う唯一の相手に」
それはとても奇妙な感覚だった。諭されている。自分よりも二十も年下の子どもに。そして師匠である自分が説くべきであるところを、弟子の少年に。生意気な、とは感じなかった。
この子はおそらく、私の知らないものを背負っている。
とても、大きな何かを――。
そして自分は、それを分かち合うことのできる存在ではなかった。おそらく、望んでも分かち合うことはできなかっただろう。
「お前の相手は、私ではなかったのね?」
半ば確信的に尋ねた問いに対して、美しい氷色の髪をした弟子は戸惑いもせずこくりと頷いた。
「私にはあの方を排してまで貴女を得る勇気はありません。お師匠様……どうか、お幸せに」
お幸せに、という言葉に皮肉な響きはまったく感じられなかった。これから死の旅路を歩むという師匠に対して、この色々なものを身の内に秘めた弟子は本心から幸福を願っているのだ。その言葉をもらえること自体が、すでに幸福だった。
けれどその幸福に代えられるものを、彼女はもう弟子に渡すことができない。これから大きな流れに翻弄されていく愛しい子に、彼女ができるのは言葉をかけ、そして冷たいその額にキスをすることだけだった。
「アンジュ……これからお前の歩む道に、お前の神の加護がありますように」
私の神ではなく、お前の神の加護が。彼女が告げた祝福に、弟子はそれ以上の言葉はない、という風に満足げに笑った。
そして終わる季節の中で、一組の男女が望んで死を迎え、新たに巡る季節の始まりに、若い黒髪の傭兵と、赤い瞳の白の魔術師が出会う。